欠田誠のマネキンの世界
第1話 マネキンの歴史(戦前)

日本でマネキン(洋装)の制作を始めたのは1925年(大正14年)からで,京都の島津製作所(田中耕一さんのノーベル化学賞受賞で知られる)の創業者の長男,島津良蔵が同製作所内に島津マネキンを設立し、良蔵〔東京美術学校(現・東京芸大)卒〕のもとに向井良吉、村井次郎などのアーチストが集まって、マネキンの制作を始めた。島津製作所の標本部では、当時フランスから輸入されていた蝋製のマネキンの熱による変形などの修理を手がけていたが、其の技術を生かしてマネキン制作を始めたといわれている。1928年(昭和3年)に島津マネキンは始めて日本独自のファイバー製のマネキンを完成させた。ファイバーマネキンの製法は京人形の作り方がヒントになっている。紙を素材に成型した本体に、にかわで和紙を張り合わせ、焼いた鉄のこてを当てて形を整えた後、胡粉を何回も重ねて塗り、十分に乾燥させてから紙やすりで表面を仕上げるといった手間のかかる作業で,とくに顔や手先に胡粉を何度も塗って紙やすりで磨きながら形を仕上げていく作業は、きわめて高い技術と造形の対するセンスが要求されたために、顔の磨きはごく限られた人にしか出来なかった.ファイバー製のマネキンは1体1体、まったく同じものは出来上がらない、1品制作的な味わいが強かった。この工法はポリエステル(FRP樹脂)製のマネキンが登場する1959年まで約31年間続いた。島津マネキンは1932年(昭和7年)マネキン工場を建設(4600m2)、マネキンの企業化を軌道に乗せた。従業員200余人で、年間5000体のマネキンを生産した。当時のマネキンの価格は、フランスの輸入マネキンは一体1000円(現在の価格に換算すると約400万円)島津マネキンはその5分の1、(約80万円)だった。フランス製のマネキンに比べ、ファイバーマネキンは生産性も高く、軽くて壊れにくいなど商品性にも優れ、商社も輸出の対象として扱い、中国,旧満州、フイリピン、インド、アメリカ、欧州、等へ販売された。
 島津良蔵は、マネキンを金儲けの手段というよりは芸術家が世の中に関わっていく使命感としてマネキンの制作を行った人で、会社はきわめてサロン的な雰囲気の中で芸術家に自由な造形をやらせた。若い芸術家を育てるパトロンとしての思いの強い人だったといわれている。当時はプロレタリア・アート運動が盛んだったので,そうゆう連中が周囲にたくさんおり、マネキンもその影響を受けた、マネキン制作を始めた彫刻家の向井良吉さんは、当時を回想して次のように語っている。
 私がなぜマネキンをやりたくなったかというと、彫刻家は銅像を作ったり偉い人の彫像を作ったりという仕事ばかりだった。権威に関わった、なんら人間社会と具体的なかかわりが無い仕事で生きがいがあるのかと。やはり街の中に並んでいる人形の方が人間との接触が間近だし、彫刻家としての生きがいがあるのではと思ったんです。
 学校にはほとんど行かなかった。島津さんのところでエスプリを吸収していました。人間のことを良く習いました。文化という言い方は嫌いなんですけど、そこで文化というものを知りました。弾圧も強かったけど、だから余計何かやりがいがある、生きがいのある時代でした。
 〔最初に作ったマネキンは〕マネキンになっていなかった。……ピカソの青の時代の影響があったと思います。やせた子供が腕組みをしていて、人間の肌色じゃないんです。真っ青な肌色なんです。(「マネキンのヒューマニティを求めて」、『夜想』31号、1993年、より)
 人体の造形にリアリティを求めたアーチストの熱い思いが伝わってくる。
 人体造形をフェティシズムの対象としてとらえた場合、いわゆる人形の世界に進むと考えられるが、それとは対極の立場でマネキン人形が作られてきたことを、とても興味深く思う。

 海外にも輸出された日本のマネキンは、海外でも高い評価を受けたが、次第に戦時色が濃くなるにしたがい1940年(昭和15年) 日本では金髪が禁止され、1941年(昭和16年) 太平洋戦争勃発、製造販売制限規則が公布され、贅沢品とみなされたマネキンは1943年に制作は中止されることになった。国民服が制定され、軍服をモデルに国防色(カーキ色)の時代を迎える。
こんな時代にアメリカでは1940年、国内のデザイン界やフランスからの亡命者を中心にアメリカ版「ブォーグ」が発刊された。
 『マネキン企業の復活』戦後,敗戦の傷跡が深く、食料すら儘ならぬ時代だったが、戦地から復員してきた島津マネキン時代の人たちが、1947年(昭和22年) それぞれ、七彩工芸・大和マネキン・吉忠マネキン・を設立してマネキンの制作を始めた。
次回では、戦後から今日までのマネキンの変遷を、年代別にたどって見よう。
写真:「島津マネキン総目録」昭和13年より