欠田誠のマネキンの世界
第2話 ファイバー製マネキンの頃

生地かけ SA-54

 戦後間もない1946年〜47年にかけて 島津良蔵、向井良吉、村井次郎たちによって七彩工芸(現 七彩)が設立され、吉村勲、佐々木良三、たちによって吉忠マネキン、藤林 重高、 藤林重治 たちによって大和製作所(現 ヤマトマネキン)が設立され、マネキンの制作を始めた。それぞれ毎年、全国各地で新作の展示会を開催してマネキンの普及に努めた。戦後の急速な西洋化、商業の発展とともに、マネキン業も急速に発展した。あいついで,京屋、平和マネキン、東京マネキン(現 トーマネ)ノバマネキン、パールマネキン、彩光マネキン、ローザ工芸、アルス,大洋工芸、など次々とマネキン事業を開始した、当初は和装を中心にしていた会社も洋装中心へと代わっていった。日本における洋装の需要の高まりは、1931年(昭和6年)に白木屋(東京)でおきた火災が大きな契機になったと言われている。
 ファイバー製のマネキンは、こんにちのFRP 樹脂製のマネキンに比べると何倍も手間がかかる上、高度な技術やセンスを要したので、1体1体同じものは出来上がらない、手作りによる1品制作てきな味わいが強かった。

かげの美女たち

マネキンはとても高価だったのでマネキンを使える店も、ある程度限られていた。当時のマネキンの販売は売りシステム(今日のマネキンはレンタルシステムが主流になっており、これは日本独自のシステムだ)だったのでマネキンは店の財産として扱われていた。マネキンはほとんど自社の工場で作っていたが一部外部の生産に委託していた。月末には、リヤカーに裸のマネキンを乗せて納品する、のどかな風景が見られた。もと島津マネキンの人たちによって設立された七彩、ヤマトマネキン、吉忠マネキンの三社は、1952年(昭和27年)3月にマネキン業界の安定と造形美術業のモラルの向上に寄与する事を目的に「マネキン3社会」を結成し、この活動が後の日本マネキンディスプレイ商工組合結成のきっかけとなった。1972年(昭和47年)に75社が加盟して日本マネキンディスプレイ商工組合(JAMDA)が初代理事長向井良吉で発足した。
 さまざまな社会状況の変化やマーケットの変化に対して協会はいろいろな活動を通して対応し今日に至っている。協会には全ての同業社が加盟しているわけではないので正確な数は分からないが、市場の独自性や個性化が進む中で、業界も拡大よりは、得意で独自な分野をいかに強化、確立していくかがテーマになっており、協会には加盟せずに、小さな規模ながら、身軽で小回りのきく独自な活動をしている工房が増えつつあるのは、この業界の特徴と言えるだろう。

私がマネキンの世界に入ったのは1957年(昭和32年)美術学校を卒業した年に、七彩に入社した時からだが、当時のマネキンはまだファイバーで作られていた、入社2年後にFRP製のマネキンが完成するが、美術学校で彫刻を学んだからと言って、1年や2年でマネキンの原型が作れるものではなかったのでこの2年間のファイバーマネキンの時代は私のマネキン制作の修行時代と重なっている。このころ(1950年代後半〜60年代の初めにかけて)はマネキンの制作に彫刻家や画家や陶芸家などのアーチストが最も多く関わった時期だった。FRP樹脂と言う素材がファイバーでは作れなかった造形の可能性を大きく広げたこともあったと思う。笠置季男、岡本太郎、東郷青児、堀内正和、流政之、八木一夫、鈴木治、末松正樹、他、多くの美術家がマネキン企業に協力して、いろいろな造形を試みている。FRP樹脂でマネキン制作が可能になったことはマネキン界にとって、あらゆる意味で革命的な出来事だった。マネキンが一般の人体彫刻と大きく違うところは。造形の美しさという魅力の外に、服を着せてディスプレーに使われるという役割があることだ。店の人達にとってマネキンは、使い勝手がよくて便利であること、一方作る側にとっては、生産しやすくて効率がよいこと、がとても重要なのだ。
 31年続いたファイバーマネキンの終焉期は其の生産技術は頂点に達していたと言える。工場の技術者達はマネキンにとどまらず、どんな形状のものでも、ファイバーで作ってみせるという気概があった、そんな心意気に乗せられるようにして作ったのが写真の[生地かけ SA−54]だ。ファイバー工法が工場から消える最後の年の事だった。入社2年目の、まだマネキンもろくに作れない新人に、ファイバーでこんなものを作らせてくれた有り難い時代だった。
写真上より:
・欠田誠 作 1958年「生地かけ SA-54」
 ファイバーに胡粉仕上げ ラッカー塗装 七彩工芸(現 七彩)
・堀内正和 作
 『ユーレーカ』(堀内正和 作品資料集成 美術出版社)より
 左048ーG「かげの美女たち(マネキン)G1959
 右049ーH「かげの美女たち(マネキン)G1960
 FRP樹脂 ラッカー塗装
・屋外で胡粉を乾燥させながら胡粉で最後の原型修正を行う著者
 七彩工芸(現 七彩)太秦工場時代