欠田誠のマネキンの世界
第32話 開拓者から学ぶもの
 今月9月4日(金)夜、日本テレビの『未来創造堂』と言う番組で、日本で始めて洋装マネキンの制作企業化を成功させた島津良蔵さんについて紹介される予定です。
この番組を制作されたテレビマンユニオンの松川さやかさんの要請で私は多少の体験談や資料提供などの協力をさせていただきました。松川さんはとても精力的にかつ丁寧な取材活動をされていましたので私の知らなかった事なども紹介されるだろうと放映を楽しみにしています。単に歴史的な出来事だけでなく開拓者、島津良蔵の人となり、マネキンに対する熱い思いと英知を知ることが出来ればマネキンやディスプレーに関心を持つ人たちだけでなく多くの人たちにも興味深い内容になるだろうと思います。
島津良蔵さんについて詳しい記述は避けますが、東京美術学校(現・東京芸術大)卒業後、1925年(大正14年)年に島津製作所で洋装マネキンマネキンの制作を始め、1928年(昭和3年)ファイバー製マネキンの開発に成功、量産化を可能にすることでマネキンの企業化に成功、今日のマネキンディスプレー界発展の礎を築かれた人です。
ファイバー製マネキンの開発と量産化を可能にしたことは革新的な出来事で、当時いろいろと報道されましたが、昭和9年9月8日の新聞(東京日日新聞)の記事を抜粋して紹介したいと思います。
輸出貿易の新進花形としてマネキンを「日本うまれの異人娘の媚態 今や海外の百貨店で大もて」と言う見出しで次のような内容の記事が掲載されています。

 (前略)マネキン人形が、今のように発達したのは、新しい事だ、10年ほど前にフランスの新しい彫刻家連中が陳列用人形として、今までの形式を破って、今あるようなマネキン人形を作り、これが1925年のパリの万国装飾博覧会で盛んに使われて、世界中に注目され、(中略)ドイツなどにもこの人形の新考案が行はれた、日本でも昔から普通の人形に商品の衣装を着せて陳列することはあったが、特に衣装をよく見せるための効果を狙ったマネキン人形なるものはなかった。そこで、デパートあたりでは、早速本場のフランスからマネキンを輸入して使いました。これが一つ千円もするから馬鹿にならない、三越ではマネキンだけで二万円かかっているそうだ。これが今では日本で十分に出来る、そればかりか、一つの新しい輸出品だ。(中略)日本紙を材料に使うというのが日本マネキンの特長、この紙は純粋の日本紙をすかして、古い帳面なんか買い集めて使っているが、いい日本紙だから、軽くて丈夫というわけだ、そこへ持って行って、値段が安い、胸像で二十円台、全身の大人で、百円前後から百五十円、安いともいえないかも知らないが、フランスのものに比べれば問題にならない。こんなわけで、輸入は高島屋が新建築をしていくつかフランスから買ったのを最後になってしまった、そこへ今度は,ポツポツ外国からも御座敷がかかるという始末、(中略)専ら模倣していたのを、独創的なものにしようというのも一つの狙いどころだ、ここで一つ立ち遅れている日本の商業美術を世界的に高めるべきだろう。
(記事を抜粋、原文のまま、但し現用漢字に修正)

 商品の価格がいくら安くても原型が良くなければマネキンは売れるものではありません。島津良蔵さんのもとに優れた作家が終結したことは氏を語る上でとても重要な事だと思います。優れた土壌(環境)があって優れた作家、優れた人材が生まれ育つものだと思います。
東京美術学校の学生時代から島津良蔵と親交が深く、後に島津良蔵、村井次郎、門井嘉衛といった人たちと七彩工芸を設立し初代社長に就任した彫刻家の向井良吉さんのお話によると、島津良蔵は、マネキンを金もうけの手段と言うよりは芸術家が世のなかに関わっていく使命感として、芸術家の社会運動としてマネキンの制作を行った人で、会社は極めてサロン的な雰囲気の中で芸術家に自由な造型をやらせた。若い芸術家たちを育てるパトロンとしての思いの強い人だったということです。

 私は1957年(昭和32年)京都の美術大学を卒業と同時に七彩工芸(現・七彩)に入社、マネキンの制作を始めました。まだマネキンがファイバーで作られている時代でした。島津良蔵さんは1954年(昭和29年)に七彩工芸の会長に就任されており時々お目にかかることはありましたが、直接指導を受ける機会はありませんでした。然し向井良吉さんや村井次郎さんや、門井嘉衛さんたちは現役で活躍されていましたので島津良蔵さんの、マネキンに対する思いは私たちにも十分通じていたと思います。私が経験した最初の6年間の京都時代はマネキンがファイバー時代からFRP樹脂の時代に変わる大きな変革の時で工場が活気に満ちた時代でした。

 時代が過ぎて、マネキンの世界でお世話になった多くの方々はすでに亡くなられファイバー時代を体験した現役の原型作家は非常に少なくなりました。
今私は原型の制作活動を続けながら、先輩達が培った貴重な精神の遺産を伝え、あたらしく育んでいかなければならない強い使命感を感じています。