欠田誠のマネキンの世界
第39話 マネキン生産の話 (其の2)
 1959年にFRP樹脂製のマネキンが世界に先駆け日本で完成されました。1928(昭和3)年に島津マネキンが日本独自のファイバー製のマネキンを完成させてから約31年間続いたファイバー製マネキンの時代は終わり、マネキン・ディスプレイ界は新しい時代をむかえました。

 京都で完成されたファイバーマネキンの製法は京人形の作り方がヒントになっており和紙で成型された形の上に胡粉を何回も重ねて塗った後、紙やすりで表面を丹念に磨いて仕上げると言った職人の手仕事による技術を要する手間のかかる作業でした。それでも外国製のマネキンよりかなり安価で量産を可能にした事でマネキンの需要を広めました。

 日本の市場でマネキンが最も数多く使われたのは、1950年から60年中頃迄の、婦人服売り場でマネキンが林立して使われていた いわゆる、服はマネキンに着せて売るイージーオーダー全盛時代のことでした。FRP樹脂製のマネキンの誕生は生産性の向上ばかりでなく軽くて丈夫で扱いやすく形もかなり正確に原形に近いものが作られるなどマネキンには正に理想的ともいえる条件を満たすものでした。マネキンメーカーは工法の研究や新しい原型の開発に積極的でマネキンの新しいジョイントの開発やシステムを開発して展示会などで其の成果をアピールしました。

 前回の第38話で、今日マネキンの生産は外注生産が主流で更に中国での生産のウエイトが高くなっている。と紹介しましたが、FRP樹脂製のマネキン生産の当初は、生産は自社工場で行われており工場では生産のための型を作る部門とその型にFRP樹脂を張り込んで製品を作る部門と各部分にジョイントをセットして組み立てる部門に分かれて作業が行われていました。更にカツラをデザインして制作する部門、手先を塩化ビニールで作る作業も自社の工場でなされていました。

 外部に制作を依頼していたのはジョイントなどの金属の部分の製作とマネキン用の靴ぐらいだったと思います。後に、自社の工場で技術を習得した人が独立して生産工場を作って量産を引き受けると言うシステムが作られました。各マネキンメーカーはそれぞれ独自な生産方法やジョイント部分のシステムを開発してきましたので各外注工場はそれぞれのメーカー専属の生産を行うことで企業の生産技術のノウハウが外注工場に受け継がれ、また企業の生産に関わる機密も守られたと言うわけです。

 街で一見同じように見えるマネキンも各メーカー独自のもの作りのノウハウが結集されて作られているのです。マネキンは人体彫刻のように鑑賞されるもので無く、服を売るためにツールとして、また、ディスプレーのツールとして常にかなり過酷な条件に耐えて使われるものですから各ジョイント部分も使い易くて壊れにくい実にユニークで優れた機能を持ったものが考案されています。

 マネキンメーカーが専属の外注工場を持つことは、メーカーにはコンスタントに生産を発注する責任が伴う事でもあります。然し激しく変化する市場のニーズに数ヶ月先の需要を予測した見込み生産はリスクが大き過ぎるうえにマネキンそのものの需要が減ってきたなど、外注工場も一社の生産だけを対象に続けていくわけにはいかず、今日では他社のマネキンの生産も積極的に行っているのが現状です。生産技術が評価されて4〜5社のマネキン会社から生産を依頼されている外注工場がある一方で、より安い生産コストを求めて中国生産を加速させているマネキン企業も少なくありません。今日の世界規模の不況の中、ファッションのマーケットは大きく変わろうとしています。マネキンの産業も新たな変化の時を迎えていると言えるでしょう。

 本来マネキンは1つのモデルがそれほど数多く使われるものでは無く、むしろ幾種類もの異なったアイテムが求められる、量産にはあまりそぐわない商品といえるでしょう。更に手作業による生産は人件費の占める割合が非常に高く、今日の厳しい価格競争に適した商品ではありません。

 ・付加価値の高いものつくり・ より魅力的な造形、よりクオリティの高いもの作り、など、制作の原点に戻ってマネキンの真の価値、可能性について考察を深める良い機会では無いでしょうか。