欠田誠のマネキンの世界
第46話 企業内作家としてマネキンを作る (マネキン会社に就職)

 私がマネキン会社に就職したのは1957年です。私が学んでいた京都美大彫刻科の教授、辻 晉堂先生、堀内正和先生が京都のマネキン会社七彩工芸〈現・七彩〉が原型作家を募集していると進めてくださったのがきっかけでした。彫刻科を卒業して彫刻を続けていくためには生活のために就職しなければなりませんでしたが学校の美術の先生になるかマネキン会社に勤めるかが主な道でした。マネキン会社は毎年原型作家を募集しているわけではありませんので私は美術の先生になる為に美大では教職課程を選考して教師の資格免許を取得していました。それに私は学生時代にとても良い美術の先生の指導を受ける事ができたこともあって、美術の先生という職業にも良い印象を持っていました。情報の豊富な今日では学生が就職先にマネキン会社を選ぶにしてもパソコンなどでそれぞれの会社を調べて会社を選び、その気になればマネキンに対する知識や情報は結構得られる時代だと思います。街でいろいろなタイプのマネキンを見ることができますし優れたディスプレーと相俟って魅力的なマネキンと出会える場は少なくありません。

 話を戻しますが、私はマネキンの制作やディスプレーの仕事に特に興味を持っていたわけではなく、むしろ無知だったといえます。マネキンに関する情報も極めて乏しい時代でした。ファッションやディスプレーの世界は今日から比べればまだまだ未開の時代でマネキンはファイバー〈紙を素材にして作られたマネキン、現在マネキンはFRP樹脂で作られています〉で作られていました。マネキンをやったら彫刻がダメになると忠告する先輩彫刻家も多くいました。そんな概念にとらわれず、辻 晉堂、堀内正和、両教授が七彩を進めてくださったわけは入社してすぐに実感する事が出来ました。七彩では向井良吉さん村井次郎さん毛利武士郎さん八木一夫さん鈴木治さんなど多くの素敵なアーチストとの出会いがありました。当時、美大の両教授は七彩に係わっていた前記のアーチスト達とは酒の仲間としても親交が厚かったようです。七彩という会社の物作りの性格を良く知っておられたのだと思います。

 当時も大変就職難の時代でしたが、私は美大の4回生の時に二科展に抽象彫刻を始めて出品して特待賞を受賞したり関西総合美術展で受賞したり、美大の卒業制作が買い上げ賞になるなど幸運が重なりそれは就職活動にも有利だったようで、学校の先生の就職も内定している状態でした。

 七彩には9人の応募者がありました。中には他のマネキン会社ですでにマネキン制作を経験している先輩も居ました。面接には見当違いだとは思いましたが抽象彫刻しか持参する事が出来ませんでした。美大では私もモデルを見てリアルな彫刻の勉強はしていましたが具象彫刻を発表した事はありませんでした。結果、抽象彫刻を模索していた私1人が採用される事になりました。具象彫刻に馴染んでいなかったことがむしろこれからの新たな人体造形(マネキン造形)に可能性を感じられたのかもしれません。技術部原型室勤務がきまり。企業内作家の生活がスタートする事になりました。

 美術学校を出たからと言っても1年や2年でマネキンが作れるものではないと言うことでしたが、マネキンの作り方を指導される事もなく、さりとて街で見るマネキンと似たような物を作ることは許されませんでした。給料を貰いながら会社に役立つような仕事が出来なくて焦りが募りました。

 先ず、作品があって、技術があって、それを学ぶ事によって自分の力が養われやがて真似事ではない自分のオリジナルな造形の世界が作られるというのがごく真っ当な手順のように思いますが。

 今思えば、あの頃は日本における現代のディスプレー・デザイン・マネキン台頭の時代、みんなで弄っていた時代、正に開拓の時代だったと思います。

 彫刻の世界では表面をきれいに仕上げただけの人体彫刻をマネキンのような と言って貶されたものです。ファッションモデルの世界でも、見ている側の気持ちを考えないで着ているだけにしか見えないモデルを「ただのマネキンにしか見えない」と評されるそうですがそのようなマネキンはマネキンの世界でも良く無いマネキンなのです。私の企業内作家のスタートは「マネキンとは?」と言う基本的な大きなテーマに対する挑戦の始まりでもありました。
写真上段より:
 1)村井次郎作〈1955年〉 FW117
   1600体を超える大ヒットしたファイバーマネキン
 2)左:村井次郎作 FW188
   右:村井次郎作 FW166

 写真・『マネキン美しい人体の物語』晶文社より