欠田誠のマネキンの世界
第61話 武蔵野の彫刻家を偲ぶ

 武蔵野の彫刻家しのぶ展覧会「磯部廣二 そのプロローグとエピローグ展」が2月13日から18日まで東京銀座のギャラリー杉野(ギャラリー テア主催)で開催されました。磯部廣二との出会いは、彼が1964年に武蔵野美術大学彫刻科を卒業してマネキン会社七彩、に入社した時からでした。1964年は東京オリンピック開催の年で、日本が挙って近代化、高度経済成長を目指し、マネキンの企業も大きな変革の時を迎えていました。私は、スペインのマネキン会社でフランスのマネキン作家ジャン・ピエールダルナのマネキン制作に協力する仕事を終えて日本に帰ってきた年のことで、それから数年間は、東京世田谷のアトリエで彼と組んでマネキン制作をすることになりましたので公私共にかなり濃密な付き合いでしたが その後、私が京都に転勤したり、その間に彼は七彩を退社したり、ダルナの制作アシスタントとして3年間パリに留学したりなどで長い間、会う機会もなく疎遠な時代が続いていました。その時期に彼の作品も生き方も大きく変わったようです。この度、磯部廣二展を主催されたギャラリー テアの谷内浅間斎さんが磯部廣二の人柄、芸術感、思想について的確で暖かい文章を寄せられていますので、それを読ませていただくことで、私にとっては空白の時代、彼にとっては最も重要だった時代を知ることが出来ると同時に、純朴で感受性の強い思慮深い男ゆえに要領よく生きるすべを持たず求道者のようなそして深く孤独であったであろう彼の人生を思い、作品に接しながら懐かしさと共に切なさがこみ上げてきました。その一方で、彼の作品を評価し続けて来られたギャラリー テアの谷内浅間斎さんの存在が彼の人生の大きな支えだったことを思うと、作家にとって至上の幸せだったのではないかとも思っています。この展覧会の後、新たな作品による更に3回の展覧会開催が予定されているそうです。

彼は詩画集も出版しており、今回の展覧会で見ることが出来ます。詩画集にちなんで 谷内さんは、「若い頃よりその才能と実力を認められ、期待されながらも1度も表舞台に立つことなく磯辺廣二は享年69歳で世を去りました。最晩年の本人の無念さと言うものを無言のうちにもひしひしと感じさせられましたが、誌画集「ヌース」を読み、閲覧して「遅れてきた実存主義者」といつも彼をそうよんでいた私を思い出しますが、日本の実存主義者として評価されるべき作品・詩画集「ヌース」を残した磯部廣二は美術界だけでなく、芸術界全般、思想界においても評価(全面的とは言いがたいですが)されるべきだと私は思っております」と述べておられます。マネキン会社で経験をつみ、技術を習得した後に会社を辞めて、彫刻や絵画、デザイン、人形やフィギィア、あるいは美術学校の教育の場などで活躍している人たちが結構多くいます。マネキン制作では美術学校とは違った、専門的でかなり高度な技術を習得することが求められますので美術学校で身につけた技術があまり役立たないことに戸惑うことが多いものです。これは皮肉なことのようですが、商品の開発現場とは案外そういうものかの知れません。それにマネキン会社(全てとは言えませんが)ではクライアントを含め多くの優れたクリエーターたちとの出会いがあります。私は常にマネキン会社にかかわりマネキン制作を続けてきましたが、マネキン会社とは元来、優秀なアーチスト達が通過していく場なのかもしれませんね。

 谷内浅間斎さんは、磯部廣二は生来の感性、七彩での実体験による当事最先端を行く先輩との付き合い、パリでの経験と言うものが彼の彫刻家、芸術家としての出発を又その後の人生をも運命的なものにしたように思われます。とも述べておられます。最後に、彼が自ら七彩時代を語っているなかの一部を紹介させていただき、共に迷いの中でマネキン造形を思考した若い日を偲びたいと思います。

 「25〜6歳の頃だった。七彩時代には哲学書、宗教書を読んだ。ラジオで道元の話を聞き、興味を持ち彼の本を読んだ。東京永平寺別院で10年程座禅を修行した。私は道元の宗教はまさしくデザインであり、人間の生き方のデザインだと思った。デザインとは何かを深く考えると、シンプルで合理的でいきいきと生きる段取りの出来るものと思った。視覚的なものの中に根本的なものがあるものだと思う。日本が構造不況のとき七彩も縮小する中、会社を辞めた」(「磯部廣二 そのプロローグとエピローグ」谷内浅間斎 著より)
写真上段より:
 1)彫刻や版画の作品が並ぶ会場
 2)七彩時代に作った石膏によるマネキンのミニチュア作品

 (ギャラリー杉野にて  撮影・筆者)