欠田誠のマネキンの世界
第65話 子供時代の体験と美術教室

 私は、ほぼ月1度のペースで土曜日に母校の世田谷区立経堂小学校で同校の児童を対象に美術教室の活動を初めて今年で4年になります。現在人数は40名で低学年と高学年を午前と午後に分けて授業をしています。ゆとり教育が始まり土曜日が休みとなったのを機会に始まった同窓生によるボランチィア活動の一環です。

 物の見方や感じ方は小学校時代にほぼ決められると言われるほど、純粋な子供の頃の体験はその後の人生に大きな影響を与えることを私は自分の体験を通じて感じています。戦時中に小学生活を送った私の小学校時代の体験は悲惨なものでしたが、今にして思えば、二度と出来ない貴重な体験だったと思います。

 私は疎開で東京を離れるまで世田谷区の経堂で育ちました。空襲がはげしくなり始めた小学3年生の時、三重県伊賀の田舎に疎開しました。田舎では4年生は同じ村の小学校に通い、5年生は電車で一駅となりの町の小学校に転校し5年生の時に終戦を迎えました。田舎から見た大阪の空が空襲で赤く染まっていた光景は今でも忘れられません。終戦の年に大阪阿倍野区に引越し今度は大阪の小学校に転校しました。結局小学校は6年間で4校転校しました。転校する度にいじめられよく喧嘩をしました。学校では先生がとつぜん徴兵されて学校を去っていきました。田舎の伯父が戦死するなど、悲しいことが沢山ありました。戦争が人間を幸せにすることは絶対にありません。私は絵を描くことが好きでしたが絵の具など自由に手に入らなかったので蝋石で道路によく絵を描いて遊びました。

 大阪で中学校、高校時代を過ごし1963年、京都市立美術大学彫刻科(現・京都市立芸術大学)に入学、1957年、卒業の年に京都でマネキン会社七彩に入社、マネキン制作を始めました。1963年世田谷区経堂に七彩のアトリエが新設されたのを機に東京転勤となり偶然にも生まれ故郷の経堂に帰る事になりました。経堂小学校で美術教室の活動に至るまでにはこのような偶然と戦争による数々のドラマがありました。

 私の半世紀を過ぎるマネキン人生を振り返れば何故か美術の教育に結構熱心に係わってきたことが思い出されます。マネキン企業に勤務しながら武蔵野美術大学、京都造形大学、千葉の江戸川大学で期間講師や非常勤講師を勤めました。大学では私のマネキン制作とディスプレイにかかわる仕事での体験が授業のテーマになりました。

 小学生を対象にした美術教室のテーマは、戦中戦後の混乱期を過ごした小学校時代の体験を改めて検証し児童美術について私なりに模索していきたいと思っています。

 日本は物質的には豊かで経済大国といわれますがそこには精神の豊かさの犠牲の上に成り立ったゆがんだ成長を感じざるを得ません。ゆがんだ精神、心の貧しさはやはりいろいろな現象として現われます。今話題になっている学校での陰湿ないじめ、それをひたすら隠そうとする学校教育の現状、更に混迷を極める政治の情況など、いつの時代も子供たちを取り巻く環境は平穏ではありません。困難にめげない強靭な体や精神や知恵を養うことがどのような時代であっても大事なことです。

 人は頭と体と心がバランスよく成長しなければ幸せになれません。美術に親しむことは心を豊かにすることです。私にとって美術教室は毎回子供たちのとてつもなく自由で斬新な発想や純真でエスプリに満ちた作品たちに出合える感動の場でもあるのです。このような場を作るのが私の役目かもしれません。
写真上段より:
 1)美術教室 児童の作品。布に絵を描いてオリジナルなエプロンを作りお母さんにプレゼントするというテーマで制作 うしろは別のテーマによる絵画作品。
 2)美術教室 児童の作品。ラドール(石塑粘土)で招き猫を作る。地元、世田谷豪徳寺は招き猫発祥の地、郷土の歴史を知ることで招き猫の制作にも特別の思いがこもる。
 (撮影・筆者)