欠田誠のマネキンの世界
第67話 新制中学・第一期生

 小学校に入学した昭和16年(1941年)の12月8日に第2次世界戦争が始まり5年生になった昭和20年(1945年)に終戦を迎えましたので私の小学校時代に受けた軍国主義教育は今日の民主主義教育とはおよそ違ったものでした。全ては戦争の為、お国の為。画家は戦争画を描いて戦争に協力しなければ画材の配給を中止されるなど、統制が厳しく、マネキンは贅沢品とみなされ1943年に中止となりました。小学校の教科には図画・工作という科目はありましたが私は小学校時代の図画・工作の授業を思い出す事ができません。おそらく軍事教練のような授業に変えられていたのではないかと思います。

 終戦後、アメリカ占領下で新たな日本国憲法が制定され昭和22年(1947年)4月1日から教育基本法が施行され民主主義教育による6・3・3・4制がスタートしました。中学校までが義務教育となった今の制度はこの時から始まったのですが私はその新しい制度の1期生で、疎開先の三重県から転校した大阪の小学校を卒業すると新制中学・大阪市立阿倍野第1中学校(学校名は昭和中学校に変更されました)に進学しました。軍国主義の教育から一変して民主主義の教育に変わり価値観が180度転換した中で私達は試行錯誤しながら戦後の新しい教育の基礎作りをしてきたように思います。新政中学校では新たにクラブ活動が始まりましたので早速、私は友人5人と美術クラブを作りました。昭和中学校には木谷吟一先生という美術教育にとても熱心な美術の先生が居られました。私が後に美術の世界に進むようになったのは木谷先生との出会いが有ったからだといえます。木谷吟一先生は京都の美術学校(現・京都芸大)の日本画科を卒業、新しい美術教育を志して教職の道に進まれた方です、木谷蓬吟(演劇評論家・近松門左衛門研究家)を父に木谷千種(1895〜1947)を母に、木谷千種は大正・昭和時代歴史的美人画を得意に活躍された日本画家、千種会を作って後進の指導に尽くされた人ですので先生が美術教育に情熱をもたれたのはそのような環境があったと思います。

 高校進学は木谷先生に勧められて、大阪市立工芸高校の美術科に入学しました。当時美術を学べる高校は関西では大阪に工芸高校、京都には日吉丘高校が有りました。

 まだ敗戦後の衣食住にも事欠く時代で社会では美術やデザインの活動などほとんど見られない時代でしたが木谷先生はこれからの新しい時代に美術に対して独自な展望があったと思います。

 先生の熱意もあって美術クラブは人数も増えて盛況でしたが、この年に昭和中学校を卒業した卒業生の中で工芸高校に進学したのは私一人でした。然し次の卒業生から工芸高校へ進学する生徒が次第に増えて昭和中学は他校に比べて工芸高校への進学率の高い学校になりました。それには、木谷先生が私たち卒業生を度々自宅に招いてお互いの交流を深めることに努められたなど人を導く強い熱意があったと思います。私は高校に進学してから、同じ工芸高校に進学した後輩達と一緒に昭和中学校の入り口の壁にフラスコ画で壁画を制作したり、時には美術クラブの活動に協力することもありました。

 工芸高等学校は家からは自転車で通える距離に在り通学に便利だということが私の選択肢の要因でもありましたが入学してみると美術を志す仲間は神戸、和歌山、奈良、遠くは福井県や三重県などからも来ており彼らの姿勢に身の引き締まる思いがしました。

 美術が好きで先生に勧められたとは言えまだ中学生だった私は将来の夢をそれほどはっきりと抱いていたとは思えませんが、当時は高校を卒業して就職する人は結構多く、就職するなら好きな美術が生かせる仕事がしたという軽い気持があったと思います。私は工芸高校の3年間で自分の進路に確信を持つことが出来ました。とても刺激的だった工芸高等学校時代を時代考証とともに次のエッセイで紹介させていただこうと思います。
写真上段より:
 1)1947年(昭和22年)中学入学、仲間5人が発起人となって美術クラブを作る発起人5人と主任の東野先生 前列中筆者
 2)工芸高等学校美術科へ進学した仲間と壁画を制作する 左端筆者
 写真撮影・木谷先生