欠田誠のマネキンの世界
第69話 高校時代(パート2)

 工芸高校はバウハウスの教育理念を早い時期から取り入れた学校です。今は美術を専攻して学べる高校は結構多くありますが当時そのような高校は関西では大阪に工芸高校と京都に日吉が丘高校(1980年美術工芸科を京都市立銅駝美術工芸高等学校として独立)しかありませんでした。工芸高校美術科には兵庫県、奈良県や和歌山県、遠くは三重県、福井県などから同じ志を持った仲間が入学していました、校風は自由で、それぞれが思い思いの表現で描いていましたが美術の基礎とも言われる石膏デッサンはとても熱心で、いつも遅くまで残って石膏デッサンをしていました。就職を希望するものが多かったので、そのためには正確に描ける描写力を身につけなくては社会で通用しないという意識が強かったと思います。決して就職が楽な時代ではありませんでしたが、戦後の近代化、経済の成長が加速する中で美術やデザインに係わる仕事も増えつつあり、工芸高校の就職率は高かったようです。特に図案科は就職先が多くそれが美術科にも回ってくるという状況がありました。デザインという言葉はまだ使われておらず図案と言われていた時代でした。

 工芸高校の美術科で洋画を専攻していた私が立体の造形(彫刻)により魅力を感じるようになったのは、抽象彫刻家植木茂さんと日高正法さんに出会えたことがきっかけだった事を前回のエッセイで書きました。私は日高先生が研究開発中の粘土をテストのつもりでいただいては作品を作り、学校で絵画を学びながら一方では自分なりに彫刻について模索するようになりました。後に私が彫刻の素材や工法に強い関心を持つようになったのは日高先生の影響があったと思います。

 私の高校卒業は昭和28年(1953年)ですが、京都美術大学(現・京都芸術大学)の彫刻科は抽象彫刻家、堀内正和さんと辻晉堂さんが教授で、従来のアカデミックな教育とは違った新しい美術教育が行われていました。東京芸術大の彫刻科は石井鶴三教授(1887−1973 塑造と木彫専門の彫刻家、芸術院会員)だったと思います。私は京都美大の彫刻科に進学する希望で受験の準備を始めました。

 工芸高校ではまだ彫刻を学ぶ科はありませんでしたが木材工芸科の教諭に日展の具象彫刻家、杉村 尚先生(1923〜2004、 京都教育大名誉教授)が居られたので先生にお願いして放課後に受験勉強のため、彫刻の手ほどきを受ける事にしました。
 石膏像を粘土で摸刻する勉強でした。杉村先生からはたんに粘土で石膏像とそっくりな形を作るという事でなく、立体で物をより深く観察することの大切さを学んだと思っています。工芸高校を卒業して美術界やデザインの世界で活躍している作家や活躍していた作家は数多くいますが、工芸高校を卒業して彫刻家になった最初の作家は淀井敏夫さん(1911〜2005 二科会理事長、文化勲章受賞、東京芸術大名誉教授、芸術院会員)ではないでしょうか。淀井さんは工芸高校木材工芸科の一期生で工芸高校を経て東京美術学校彫刻科を卒業されました。

 東京芸大の洋画科に進学した先輩から「東京に芸大入学率の高い石膏デッサンの研究所が在るので見学してみてはどうか」と助言され、私は夏休みを利用して東京の研究所で石膏デッサンの勉強をする事にしました。同じ石膏デッサンでも受験向きのスタイル、傾向があるように思いました。

写真上段より:
 1)工芸高校美術科の実習室にて当時の暖房は石炭ストーブが一般的だった。
   1つのストーブをみんなで囲んで良いコミュニケーションの場でもあった。右端 筆者
 2)1952年、夏休みに東京の美術研究所で石膏デッサンの勉強をする。写真は東京芸大にて 筆者
 写真提供・筆者