欠田誠のマネキンの世界
第70話 京都美大時代(パート1)

 1953年私は京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)彫刻科に入学しました。当時の美術学校では具象彫刻家の教授によるアカデミックな美術教育が普通でしたが京都美大の彫刻科では辻晉堂、堀内正和 両教授のもとで新し い独自な美術教育が行はれていました。京都美大の彫刻科に入学した私のクラスには陶芸家や木工芸作家を目指しながら現代美術の造形を学ぶべく、あえて彫刻科に入学した、今は亡き木工家・黒田乾吉※1や陶芸家、河村又次郎※2らが居ました。伝統的な美術、工芸の盛んな古都、京都に在って京都市立美術大学で革新的な新しい美術教育を行うには何かと抵抗も多かったようですが卒業したアーティストが今日の現代美術に係わる広い分野で数多く活躍している事は、京都美大で行われた新しい美術教育の成果といえると思います。

 私は高校時代から抽象彫刻に興味を持って自分でも抽象的な小品を作ったりしていましたが、具象彫刻を否定していたわけではありません。どんな形を作る場合でもイメージを形にして表現するには確かなデッサン力が必要です。それにデッサン力の不足はイメージや発想までも貧困なものにしてしまうものです。美大でモデルを見て制作する人体彫刻の授業は主に山本挌二先生(1915−2000 新制作協会会員、京都市立芸術大学名誉教授。作品にガンジー像、湯川秀樹博士胸像など、昭和 平成時代の具象彫刻家)の指導を受けました。山本先生から学んだ 物の存在を立体的に構造的に把握する事の大切さは抽象彫刻にも通じる事だと思います。

 塑造の実習では粘土で制作した等身大の裸婦や肖像の型取りをして石膏で彫刻を作る技術を習いました。石膏という素材は扱いやすく、独特な質感にも魅力を感じていましたが、石膏の作品は風雨にさらす屋外に設置する事が出来ない事や、あまり丈夫な素材でない事が私の考える彫刻にそぐわないように思えました。工芸高校で絵画を専攻していた私が立体の造形に抱いたものは自然の空間と融和して存在する造形、あるいは建築の造形との融合など、作品の置かれる環境の想定は常に屋外にあり、彫刻は風雨に耐えうる物で堅牢で壊れにくい素材で作らなくてはならないという思いが強く、美術学校の実技で体験する石彫や木彫のほかに自分に似合った素材や制作方法を自分なりに摸索する作業が始まりました。

 私が美大で学んだ昭和29年から32年の頃は辻晉堂先生が陶彫という独自の技法で作品を作り東京丸善ギャラリーの個展で陶彫作品を発表、翌32年には第4回サンパウロ・ビエンナーレ展、33年には第29回ベネツィア・ビエンナーレ展に日本を代表して出品。堀内正和先生は鉄板を溶接して制作した独自な抽象彫刻を二科展で発表、第4回サンパウロ・ビエンナーレ展、には辻先生と共に推選を受けて抽象彫刻を出品されるなど、両教授の旺盛な制作活動を目の当たりにして大いに刺激されながら学習できた事はとても幸運だったと思います。

※ 1黒田辰秋(重要無形文化財「木工芸」人間国宝)の長男・黒田乾吉木工塾、日本伝統工芸展などで活躍
※ 2陶芸家・河村喜太郎の次男、鎌倉の北大路魯山人陶房の跡に居を移し生涯で50回以上の個展を開催、1981年
教皇ヨハネパウロ二世来日に際し日本司教団より献上された作品がバチカン宮殿に永久保存となる

写真上段より:
 1)京都美大2回生時、始めて石膏で抽象彫刻を作った第一作 1954年「作品」
   鉄棒で心棒を作りその上に石膏を付けて作る、石膏の直付け技法による
 2)1954年「おどり」石膏
 写真・筆者