欠田誠のマネキンの世界
第71話 京都美大時代(パート2)「戦ったあとの美術展」にちなんで

 今年(2013年)3月16日(金)から31日(日)まで京都市中京区の京都市立芸術大学ギャラリーで「戦ったあとの美術展1950年を中心に」が開催されました。出品作家は京都美大を卒業した作家・山本友克・濱田昇児・大野幹彦・岡部佳男・城了治・柳原良平・平田自一・内田広・欠田誠・山田沙・大嶋八重子・井上平八郎・中谷健三・林剛・江口晃・西真・三宅五穂・中島智恵・竹内義夫、19名でそれぞれ1950年代に制作した日本画、洋画、デザイン、陶芸、彫刻、の作品展示でした。彫刻の出品は三宅五穂さん井上平八郎さんと私の3人で私の作品は1957年にセメントで制作した美大の卒業制作で資料館に所蔵されている作品が出品されました。私はこの展覧会で56年ぶりに自作と対面する事になりました。作品の良し悪しではなく一途に立体造形の学習に打ち込んでいた学生時代が甦り感慨深いものがありました。抽象彫刻に夢中になっていた当時は、後にマネキンの世界で女性の体をリアルに作る作品に変わるとは私自身思ってもいなかったでしょうし、更に人体をそのまま型取る技法(FCR技法)を開発してスーパーリアルなマネキン制作に至る私の制作の変化は、美術の歴史の流れや、作家の作品の変化の様子をごく一般的に見れば、具象から抽象に移って行くのが普通のように思いますが、私はその反対を辿ったことになります。時代とともに作家がいかに思い生き、いかに作っていくかはそれぞれで、その工程の中に作品が存在する事を思えば、作品の移り変わりを一般論に当てはめて語る意味は無いと思います。私の場合は、彫刻を続ける為に生活の糧としてマネキン会社に就職しマネキンを作りながら抽象彫刻を作って二科展に出品し続けていましたが、1964年〜65年にスペインのマネキン会社インターナショナル・コッペリア社の招きでマドリードのアトリエでフランスのマネキン作家ジャンピエール・ダルナさんと一緒にマネキンの原型制作をするという体験が私の彫刻に対する考えを大きく変えることになりました。マネキンは大衆と直接かかわりを持つ大衆の為の新しいアートだという思いが確信に変わったと言えばよいでしょうか、日本へ帰ってから私は二科会を脱退してマネキンの制作に専念することになりました。私にとっては彫刻とマネキンが一体になったわけですから二科会を脱退したものの作品の発表の場が美術館などの展覧会の会場からデパートや店舗のウインドなど売り場の商空間に変わっただけで、彫刻を止めたという思いはありませんでした。近年は彫刻の概念もずいぶん変わり人体彫刻、フィギュア、人形、マネキンの垣根も曖昧になり、所謂美術展に私が作品を出品する機会も増えてきました。

 話を「戦ったあとの美術展」に戻しますが展覧会初日の16日(金)に開催されたシンボジウムに出席し自作の思い出、現代に伝えたい事などについて話す事になりました。私の出品作はセメントで作られていますが中は空洞になっているので比較的軽く出来ています。当時セメントを素材にした彫刻は多く見られましたがセメントの作品は、セメントのじか付け工法か型に流し込む工法で作られていましたのでとても重くて少し大きな作品になると人の手を煩わさなければ一人で動かせないものでした。セメントの質感を損なうことなく且、軽くてより堅牢な作品、そして人の手を煩わさずに、マイペースで制作することができないか、そんなテーマで思考錯誤を繰り返して完成させたのがこの卒業制作でした。後に彫刻科の卒業生からこの技法を実技の授業で習ったという話を聞かされるなど、この作品にはいろいろな思い出があります。今日では彫刻科の卒業制作展や一般の公募展などでセメントの彫刻作品を見ることはほとんど無くなりました。変わってFRP樹脂が造形物にはもっとも多く使われているようです。今でもセメントは建築や道路の建設など多くの場で使われている事は昔と変わりませんがその工法は近代化され、昔のように街のあちこちの工事現場で砂や砂利が積まれ工事の人達がセメントを練っている光景は見ることがありません。私はそんな工事の人達の作業を見ながらセメントの工法を覚えました。今はいろいろなタイプのセメントが開発されホームセンターなどでも売られており、セメント造形の可能性はより開けていると思いますが、セメントが昔ほど造形の身近な素材に思われないのは何故でしょうか。

写真上段より:
 1957年 『作品』 セメント 「戦ったあとの美術展」会場にて
 写真・筆者