欠田誠のマネキンの世界
第94話 マネキンの製作と陶芸の出会い・私の場合・

ボディWB15(七彩)1962年FRP樹脂 H 110p 八木一夫 作 全国の市場で数多く使われたヒット商品

戦後、島津マネキン時代の仲間がそれぞれに、七彩工芸(現・七彩)、ヤマトマネキン、吉忠マネキンを設立してマネキン業が再開されました。3社の本社、工場は同じ京都市内にありました。私がマネキン会社に就職したのは1957年で、その頃の日本は敗戦からの復興に向かって発展途上の貧しいながらも兎も角、元気な時代でした。ファッションの世界も正に発展途上でマネキン業の役割は需要にこたえるというより啓蒙する役割が強かったと思います。マネキン3社は商売上ではライバルの関係ではありますが制作に携わる技術者達は美術学校の先輩、後輩、同輩の仲間で、マネキン会社に勤めながら彫刻を制作して二科展や行動展などの団体展に出品していました。私も彫刻を制作して二科展に出品していましたので互いに美術活動での交流が盛んで、マネキンの開発も互いにテーマを共有できたのではないかと思います。毎年開催されていた新作展示会で作品を披露し、互いに刺激されながら、マネキンの業界がディスプレイ界を牽引しているという手応えが感じられました。
その頃のことを彫刻家、堀内正和先生(京都美大教諭・当時)は、《どの会社も今の中堅どころの若いころは実に向学の意欲に燃えた人が多かった。毎週1回、夜、僕の家に集まってフランス語の勉強をしたことがあるが,これはずいぶん永い間続いた。上達が遅いのには驚いたが、フランス語をやる時間より雑談の時間の方が永かったので無理もない。(中略)ともかく最後にはク・セ・ジュ文庫の『彫刻史』(ルイ・ウールティック)を読み終えたのだから大したものである》《フランス語もそうだがマネキン作りの若い作家にはいろいろとよく勉強する人が多い。他の職種と違って造形感覚が生来的に優れていなくてはならぬことはむろんだが、そのうえ世の中の動き、とくに文化の様相の変化についてはつねにすばやく反応し、これを自分のものにしていかないと同業の間で立ち遅れてしまうからだろう》と書いておられます。堀内正和作品資料集成 ユーレーカ(1996年・美術出版社)の文中、一部を紹介させていただきました。

裸婦(ヤマトマネキン記念品)1962年 鉄 5×15×5p 堀内正和 作 裸婦(ヤマトマネキン記念品)1962年 鉄 3.5×13×5.5p 堀内正和 作

1950年代は彫刻家や画家、陶芸家などのアーチストが最も多くマネキン会社に関わって仕事をした時代でした。 伝統的な陶芸を重んじる京都で、前衛陶芸集団、走泥社を結成して、いわゆる「オブジェ焼き」という新しいジャンルを開拓した八木一夫さんや鈴木治さんが七彩で商品の開発に協力していました。鈴木治さんは陶器で工芸作品やノベルティの制作、八木一夫さんは生地かけ用のオブジェやボディの制作をされていました。
八木一夫さん達と親しかった彫刻家、辻晋堂先生(京都美大教諭・当時)が独自な陶彫を初めて発表されたのは1956年でした、京焼の本場、京都東山に住んでいたことが機縁だったと言われています。1957年には第4回サンパウロビエンナーレに日本を代表して陶彫を出品。1958年には第29回ベニスビエンナーレに選ばれて陶彫を出品し、海外でも高く評価されました。七彩の創設メンバーで、1982年78歳で亡くなるまで現役でマネキン制作を続けられた村井次郎さんも陶彫を制作して走泥社に出品していました。焼成は鈴木治さんが引き受けておられたようです。このような環境の中でマネキンの原形制作をしていた私は陶彫の経験はないもののごく自然に陶器でボディやオブジェを作りました(写真参照)。鈴木治さんに焼成をお願いして作品を作り、量産は瀬戸の陶器工房にお願いしました。

陶器ボディ(七彩)1962年 陶 筆者 作 裸婦(七彩展示会の記念品)1983年 陶 12×11×8p 筆者 作

マネキン業界から離れてから今は、陶彫を作って災害復興支援のチャリティー展に出品したりしています。造形は何といっても形が基本で造形の弱さを釉薬や焼きの効果でごまかすことはできませんが、陶彫の魅力の多くが焼成の作業にあることを感じながら学習している段階です、制作のテーマは顔や人体で、マネキン時代から続く私の終生のテーマではないかと思っています。









写真上段より
 1)ボディWB15(七彩)1962年FRP樹脂 H 110p 八木一夫 作 全国の市場で数多く使われたヒット商品
 2)裸婦(ヤマトマネキン記念品)1962年 鉄 5×15×5p 堀内正和 作
 3)裸婦(ヤマトマネキン記念品)1962年 鉄 3.5×13×5.5p 堀内正和 作
 4)陶器ボディ(七彩)1962年 陶 筆者 作
 5)裸婦(七彩展示会の記念品)1983年 陶 12×11×8p 筆者 作
写真提供 筆者